【みんなの名字の由来】

ユーザーの皆様から寄せられた名字の情報を掲載しています。

「みんなの名字の由来」は各名字の検索結果ページから登録できます。
名字検索はこちらからどうぞ。

スポンサーリンク

土井さん
土井の土の字の横に 点がつきます 旧い字らしく墓にもその様に彫り込んであります ご近所の上土井さんの墓にも 点がついてます。
【投稿日】2024/05/06 08:21:36 【投稿者】どいさん
畦布さん
鹿児島県和泊町畦布集落発祥の名字。集落の指導者の家系と伝わる。第二次世界大戦後、離島して本州に渡る際、兄弟共に中原姓に改姓したが、既に別家を建てていた家系のみ、畦布姓が残っている。
【投稿日】2024/05/06 05:53:11 【投稿者】ジョウホウテイキョウさん
德川さん
徳川家康以来、徳川姓を使用していた徳川宗家及びその親族の一部が「德川」を使用していることがある
変更した主な理由は有名すぎるために、イタズラや嫌がらせを受けることが多かったため
【投稿日】2024/05/05 22:36:20 【投稿者】tanuさん
持明院さん
藤原北家中御門流の公家・華族。羽林家、維新後子爵。
藤原道長次男頼宗の曾孫、藤原俊家の子基頼の流れを汲む。江戸時代の石高は200石。家学は鷹匠、書道(筆道宗家)、神楽。
明治維新後、華族に列し、華族令発布後には基哲が子爵に叙せられる。
【投稿日】2024/05/05 22:02:56 【投稿者】匿名さん
浅井さん
一宮と稲沢に浅井姓だらけの集落があるのだが、何故?
中川区にも多いですよね?

うちの夫は浅井だらけの集落出身です。
【投稿日】2024/05/05 20:36:53 【投稿者】あやたそさん
益田さん
武家で石見益田を本拠としていた石見益田氏は本姓藤原北家小野宮流実頼の後裔とされ、また日野流真夏の系統とする説もある。
はじめ浜田の御神本に居館を構えたことから御神本(みかもと)氏を称した。後に毛利氏に臣従、関ヶ原の戦い後長門須佐を領した。維新後華族に列し敘男爵。
初代は藤原忠平の9世の子孫、石見守藤原国兼といわれるが、国兼がどの系統の藤原氏に属するかは異説が少なからずある。
永久2年(1114年)、石見に赴任するために下向。任期終了の永久6年(1118年)以降も石見に留まり続け、そのまま土着豪族化した。その際、石見上府(浜田御神本)に拠点を構え、御神本氏を称した。系図によっては地域の有力者とする史料もあることから、地元の有力者との婚姻関係を結びながら土着化していったとみられる。
国兼の子は、系図によって兼実・兼真・季兼と名前が異なる。益田氏の出自に関して藤原季兼と名前を共にする、1153年〜1157年にかけて石見国司であった「源季兼」なる人物との関係が指摘されている。季兼の女は藤原資長との間に兼光を生んでいるが、益田氏系図で祖とされる国兼の従兄弟にあたる藤原実光の子が資長である。益田氏が国兼を藤原氏系図の中に位置づけた際に、季兼との関係も影響したため、益田氏一族が「兼」の一字を通字としたのも季兼との関係があると考えられる。

3代兼栄、4代兼高の代で益田氏は石見に有力武士団を形成した。兼高は石見在庁官人として石見における地位を確立し、石見押領使に補任された。また兼高の代で居館を益田に移し(建久9年、1192年)、これ以降益田氏に改める。兼高の次男兼信は三隅(みすみ)氏を名乗って分家三隅氏を、三男兼広が福屋(ふくや)氏を興す。三者は一族を同じくする者として、氏神御神本大明神の祭礼を共同で行うなどしていた。一般的には益田氏を御神本氏の惣領家とすることが多いが、三隅・福屋氏の系図史料が不足していることから、御神本一族惣領が益田氏であると断定するには至っていない。

5代兼季は石見の莫大な所領を子らに分封した結果、周布氏・末元氏・丸茂氏・多根氏などの庶流が生まれた。南北朝時代になると益田宗家は北朝方、三隅・福屋・周布などの分家は南朝方に付いた。

観応の擾乱が勃発すると、益田氏は大内弘世と共に中国探題であった足利直義方に付いた。その後直義方が劣勢になると大内氏は足利尊氏方に寝返り、益田氏もそれにならった。以後益田氏は大内氏の傘下として石見国人筆頭の地位を築いた。応仁の乱で益田兼堯・貞兼父子は大内政弘に従い石見で大内教幸や吉見信頼の反乱を鎮圧して石見の勢力を伸ばし、益田宗兼・尹兼父子は大内義興に従軍して永正5年(1508年)に上洛する。

天文20年(1551年)、大寧寺の変で大内義隆が陶晴賢ら重臣の謀反で討たれると、益田藤兼は晴賢との関係より晴賢主導の大内氏に従った。しかし天文24年(1555年)の厳島の戦いで晴賢が毛利元就に討ち取られると、藤兼も翌弘治2年(1556年)に元就の次男吉川元春に益田領へ攻め込まれ、翌3年(1557年)に降伏、以降は毛利氏に従属する。

子の元祥も引き続き毛利氏に仕えたが関ヶ原の戦いで毛利氏は減封、元祥も石見益田を離れ長門須佐に移った。以後益田氏は長州藩の永代家老としての待遇で毛利氏に仕え、問田益田家など分家三家も寄組として繁栄。幕末に禁門の変で長州軍の指揮を執り、長州征討で責任を取って切腹した益田親施(右衛門介)は益田宗家33代(須佐益田家14代)にあたる。同時代の長州藩士である周布兼翼(周布政之助)も前述の周布氏の一族出身である。

維新後は男爵に叙爵。現在、子孫は萩市須佐には在住せず、東京都内に在住する。

益田氏はこれ以外に、徳島藩蜂須賀家家老の益田氏、幕府旗本の益田氏がある。
【投稿日】2024/05/05 20:09:34 【投稿者】匿名さん
堂ノ尾さん
「どうのお」と読む人がいます。
滋賀県。
【投稿日】2024/05/05 19:53:51 【投稿者】ちば子さん
平間さん
富山県富山市に平間という名字の人がいる
【投稿日】2024/05/05 19:47:00 【投稿者】laiku2さん
堧水尾さん
東京都港区に「堧水尾」という名字の人がいる
【投稿日】2024/05/05 19:44:19 【投稿者】laiku2さん
藤󠄁原さん
「藤原」の旧字体表記。
【投稿日】2024/05/05 19:22:14 【投稿者】匿名さん
このエントリーをはてなブックマークに追加 LINEで送る フォローする

名字検索

みんなの名字の由来を入力するには、まず入力したい名字を検索してください。

*
 

 

300万ダウンロード突破!! スマホで名字由来netを使うなら、アプリがおすすめ!